「おいしい」手料理の探求

 私の手料理は「おいしい」のだろうか?

 私は食べることが大好きだ。2歳の頃、大きなフランクフルトにかぶりついているところを、父に写真に撮られた。いつその写真を見ても、私の人生だ、と思うほどには食べることが大好きだ。

 それでも、食事は苦手である。特に、「ひとりで」「自分の手料理を」食べるのが苦手だ。一応得意料理もあるし、料理自体が苦手で下手なわけでもない。それでもひとりきりで自分の手料理を楽しめないことは多くある。

 

 以前、ひとり暮らしをしていたときに、自分の手料理を楽しめたことは一度もなかった。「おいしく」食べることの不全に陥っていた。真っ白なLED電球のもと、たいして美味しくない(当時は本当に料理がへたくそだったのだ)手料理を、YouTubeの片手間に食べていた。ひとりでは、食事を楽しめなかった。楽しめるどころか、食事の度に消耗さえしているようだった。

 今では料理も上達して、家族に振る舞う機会が増えてきた。家族で私の手料理を囲むとき、私にはもったいないくらいに家族は「おいしいね」と言ってくれる。それに呼応するように私も私の手料理を「おいしいね」と認めていく。

 それが、ひとりきりで食事をするときは違う。家族に振る舞った全く同じ手料理でも、ひとりになると途端に「おいしく」なくなるのだ。誰も私の手料理を認めてくれない。私は、料理の出来を判断できるほどの肥えた舌や知見は持ち合わせていない。じゃあ、今私の目の前にあるこの料理は本当に「おいしい」のか?そんなことは私には分からない。私は、私の手料理が美味しくても美味しくなくても、「おいしいね」「たのしいね」と言ってくれる誰かを必要としていたのだ。

 

 今のところ、私が私の手料理を「おいしく」食べるためには、他者からの承認が必要だ。しかし、食事をするたびに誰かを引き連れてくるのは難しい。

 私は、いかなるときも私の手料理を「おいしく」食べるために、私自身を認めてあげないといけない。

 美味しさが科学によって担保されるとするならば、「おいしさ」は心理に依存するだろう。私がひとりきりで、私の手料理を食べるとき、たとえそれが科学的に美味しいとしても、心はそれを「おいしく」味わうことができていない。それは、私が私を信頼できていない心理の証である。

 どうしたら、手料理は「おいしく」なるのか。それは料理のスキルを上達させることではなく、私が私を信頼することから始まるのだろう。ただ、それはとても難しいことで、信頼しようとしてできるものではない。毎日自分との些細な約束を守るとか、出来た事実を認めていくとか、そういう地道な道を通っていくことでしか、料理は「おいしく」ならないのだ。

 

 「おいしく」食べることの不全から立ち直るためならなんだってしたい。食べることは私の人生なのだから。