暮らしの波は平坦だ。

 波に一喜一憂していては体が持たない。記憶は続いていく身体を保つために少しずつ消し去られていく。でも、暮らしの中にある砂金はきっとその波の中にある。

 なんでもない日に祝祭を。それはきっとわたしたちが見落とした、消し去った記憶に砂金を見出すことで、祈りなのかもしれない。何も起きなかった1日のどこかにきっと何かが起きたんだ、と信じることなのかもしれない。

 生きることは祈りだ。明日なんてわからない。それでも明日を望みあるものと信じて生きることを決める。その厳かな決断がひとの数だけ毎日おこなわれている。

 そんな厳かな決断でさえ、ひとびとは記憶から消し去ってしまう。それは、祈りとは、静かなものであって、自分の知らないところでおこなわれることだから。

 暮らしの中の砂金も祈りも決断も、なかったもののように見える。でもふと立ち止まっててのひらを開いたらきっとそこに何か形にならないものが転がっているはずだよ。

 それを信じることでしか、わたしたちは生きていくことができない。