身体をひらくこと

 一歩踏み出す決断をしたときに、身体はアラートを鳴らす。これが不安ということなんだろう。

 不安の対義語は”安心”。不安⇔安心の双方向の矢印は、心の動きという共通点において反対方向を向いている。

 ところで、”不安”とは、心の動きだけにあてはまる言葉ではない。スッと血の気が引く身体感覚もそうだし、状況に対して”不安”という言葉を当てはめることもあるだろう。身体感覚については、不安⇔安心の構図があてはまる。それなら、状況に対する不安の反対は?

 ”不安”な状況の反対、”安心”の状況。”安心”の状況って何?私たち人間が安心できる状況って、きっと日常そのものだったり、日常が不安なひとは、少し現状から背伸びした生活だったりすると思う。

 ”不安”の反対は、”納得”だと思う。

 

 ずっと、今置かれているこの状況が不安でたまらなかった。

 殻に閉じこもっていると、どんどん私に覆いかぶさってきて、踏み出そうにもすぐにアラートが鳴る身体になってしまう。身体は縮こまって、どんどん固くなっていく。生活に溢れる些細な刺激が固くなった身体を突き刺してくる。怖い。怖いからどんどん縮こまる。身体は固くなっていく。悪循環。なす術がなく、うろたえていた。

 殻にひびをいれようにも、そんな気力はとっくに削がれていた。精神のちからでどうこうできる問題ではなかった。それでも、いつしか縮こまっていた身体はほぐれ、殻にもいつしかひびが入り、外の世界を覗いても大丈夫と思えるようになっていた。

 身体をひらくこと、だった。

 ほっとできるところで、身体をひらいてみる。風や、温度を感じてみる。足で地面を踏みしめてみる。不安になっても続けてみる。不安が和らぎ、いつしか何も感じなくなる。そこには、無味乾燥な現実だけが転がっている。ただその現実を、何の脚色もないまま受け取ること。目の前が現実で満ちたとき、感じるのは不安ではなく、安心だった。

 

 身体をひらくことを諦めなくてよかったと思う。身体をひらくことは出会うことで、たとえ最初の出会いが風であっても、いずれ機会やひととの出会いに置き換わっていく。出会いとは殻を突き破る運動だ。自分に覆いかぶさった殻を蹴飛ばし、外へ向かおうとする推進力になる。外に向かえば、生活を育てることができる。こうやって手に入れた”納得”は、大きな自信になる。

 不安は、いつ何時も、私の上に覆いかぶさってくる。それでも、”納得”を手に入れられるようになったときには、きっと竹のようにしなやかな強さで、耐え忍ぶことができるだろう。