20230915

 ちいさい鞄に素手でペットボトルを持つひとのなんと多いことか。大きな駅に行くと性別年齢問わず(しいて言えば若い男女と中年男性が多い)見かける光景。ペットボトルは荷物に換算されないのか?

 

 カウンセリングの日だった。ふと心が不安定になることがある。高くて細い柱の上に、ボールを置いたような不安定さ。それは大体父にまつわる問題が起きたときであるのだけど、まだ精神的に両親から自立できていない証拠なのではないかと、話していながら落ち込んでいく。

 カウンセラーに、お父さんに言葉をかけるならなんと言いますか、と問われる。その瞬間に、恐怖感で他人をコントロールしようとしないでほしい、とすらすらと言葉に出来た自分に驚いた。恐怖感が家族間で共有されると和が乱れておそろしい。私は父から植え付けられた恐怖感が強くて、いつも先回りをして父の機嫌を損ねないようにしている。でも、本当にそれっていいことなのか。和を乱さないことは、ときに暴力になるだろう。私は無意識に、父の機嫌を取ると同時に、他の家族の負の感情を表に出させないように抑え込んではいないだろうか。

 ニュース番組を一緒に見られない家族。それぞれの意見をぶつけたり尊重したりができない家族。感情を表に出せるのは父の特権である家族。私はそこいらの社会よりも、もしかしたら穏やかで熾烈な環境にいるのかもしれない。

 カウンセリングは、父に何かを伝えるときはアイメッセージで伝えること、ということで締めくくった。父の機嫌を取るという猛烈に神経を使う行為から、自分の感情を開放するために受け取り手の反応に執着しない自分のための行為への移行だ。でも、もしかしてこれも、感情で誰かをコントロールする父のやり方と一緒なのではないか。もし私が、何々で悲しかった(だからやめてほしい)と言ったとしても、悲しいのは私だけなのであって、私の感情のために誰かが動かされる道理はないのではないか。考えれば考える程「繊細さん」みたいな、一種の当たり屋行為のように思えてならない。自分の感情や思考、利益不利益と、他人のそれの均衡をどう取っていけばいいのか、今後の課題に残る。

 

 カウンセリングが長引いて時差回数券の使えない時間になってしまった。ふらっと本屋に寄る。政治と経済と思想について、本気で勉強しないとだめだ、と思っている。そうしないと世の中に流されて生きていくことになってしまうし、何より自分の心を語れない。初心者向けの本を探していたけれど、結局見つからず、文芸誌をぱらぱらめくって何も買わないで帰ってきた。ちくまプリマ―新書くらいのレベルで良さそうな本があれば、ぜひ教えてください。

 

 発車まであと1分の電車に飛び乗ったら最前列の車両だった。客席の窓と運転席の窓が繋がって、スーパービュー踊り子に乗ったような気分。夕方のやや混んだ普通列車で、ゲリラ豪雨の近づく空を見つめていた。