見えているものを見つめてみる

  先のことばかり考えるあまり、目の前の小さな感情を取りこぼしてしまう癖がある。

 

 さくらももこ展を観に行った。

 子供の頃に「満点ゲットシリーズ・ちびまる子ちゃん」をほとんど全巻読破し、本の隅から隅まで何度も読み返していた。私の言語感覚を磨いてくれたちびまる子ちゃんの漫画に愛着を持っている。さくらももこのエッセイは「さくら日和」と「さくらえび」を読んだだけで、三部作として有名な「もものかんづめ」「さるのこしかけ」「たいのおかしら」は読んでいない。あとは「ちびまる子ちゃん」と「コジコジ」のアニメを少し観た。私のさくらももこ歴はその程度だったが、一世を風靡したエッセイストの根幹を見てみたくて足を運ぶことにした。

 特に楽しみにしていたエッセイの展示では、さくらももこ本人の手書きのエッセイが展示されていた。独特なあの文字は、茶目っ気がある中にどこか意地悪さを感じるまる子の話し方によく似ている。エッセイの内容を追っていくと、大多数の人は見逃しているようなちょっとした心の動きを小気味よく表現している。言われてみればそんなことあったな、と共感するような出来事をひとつずつ拾って、個性溢れるフィルターで解釈していく様に圧倒された。

 エッセイを読むときは大抵、なんて私は出来事への感度が低いのだろう、と落胆する。それが故に目の前のエッセイを置き去りにして、自己批判に深く沈んでしまう。もし私に目の前のエッセイと同じようなことが起こったとしても、私は機敏な感情世界の全てを言葉で掴み取ることはできない。平穏な日常生活を送るために、出来事を深く考えることを諦めたり、見逃しているようにも思える。私はその貧相さに悲しくなってしまう。

 今回の展示を見ている時も例によって自己批判に陥った。それでも作品の緻密さに目を凝らしているうちに、自己批判を繰り返して掴み取りたいと願っている割に、本当に私は目の前の出来事を掴み取ろうとしたことがあっただろうか、とハッとした。本当に豊かな感情体験をしたいのならば、今目の前にある出来事を十分味わって、生まれた感情を拙いなりにも言葉にしようとしなければいけないのではないか。作家は非凡で私は凡人だからと諦めて、出来事に目を凝らすことを疎かにしていなかったか。私は大いに反省して、その後の展示ひとつひとつに語りかけるように頭の中で呟きながら鑑賞した。

 「コジコジ」の展示に差し掛かった。私にとってほぼ初見である「コジコジ」の展示をちゃんと観れるか自信が無くて不安に襲われたが、心配はいらなかった。コジコジのずば抜けて純真無垢な言葉に衝撃を受けた。コジコジコジコジでそれ以上でもそれ以下でもない、と言い張るその過不足のなさに、私が抱える悲観はパッと吹き飛ばされた。その爽快さにすっかりコジコジのファンになって、興奮したままコジコジのリトルプレスとクリアファイルを買い、さくらももこ展を後にした。

 

撮影可能ブースの展示 コジコジの絵を見つけて興奮してシャッターを切る

 

 今見えているものを見つめてみる。心の動きを見つける。それを言葉にする。

 心の動きを言葉に出来たとき、その言葉によってさらにその心の動きは鮮やかに彩られる。そうやって豊かな感情体験が起きる。その繰り返しで出来事を見る目が磨かれていく。

 私はもっと目の前のことを見つめてみたい。豊かさを諦めたくない。