実感について

 この1年間、臨床心理士によるカウンセリングを受け続けて、私は実感のないことには殆ど関心を示せないのだと気づいた。いくら本を読んでも、文字を書いても、自分の中で納得しなければ、それが真理だとしてもスルリと抜け落ちていってしまう。

 

 中高生の時の勉強スタイルは、ガシガシと問題集を解くことだった。教科書を熟読せず、ただただ正解を追い求めて手で覚えていく感じ。それも悪くなかったと思う。成績優秀者だった。

 大学に入学してすぐ、問題集のない勉強の仕方を持ち合わせていないことに気づき、うろたえた。大学での勉強、いや学問には、正解のないものや正解が複数あるものがたくさんある。高校までのような検定教科書はない。教科書(という表現が正しいのか分からない)の執筆者の思想も理解して学ぶことが求められる。

 やり方が分からないから、まずは教科書を読みこんでみた。目が滑って、情報が入ってこない。すぐに巻末の問題にかじりつきたくなる。問題に逃げるのは、本質的な理解から逃れようとする回避行動だ。

 なんとかして、空想上にある学問を実感のあるものにしなければならない。幸い、専攻が実学に近いものであるため、実感を得ることは簡単にできそうだ。

 机にかじりつくだけが勉強じゃない。その思い込みを取り払い、自分の手で情報をつかみ取り、実験をする。この目で見たことを知識に還元する。これからはアクティブに学問しようと決意する。

 

 実生活においても、実感を得ようと行動することの大切さがだんだん分かってきた。

 読書が好きで、たくさん読む方だと思う。それでも読んだ内容を覚えている本はほんの少しだ。読書は、良くも悪くも平坦な趣味だ。私の心が平坦なのかもしれないが。

 本を読んでいる時、感銘を受けたり、納得したり、心に何かしらの影響を受けるときは大抵自分の中に実感があるときだ。読書をすることで新しく体験できるという人もいるが、私は自分に起きたことを追体験することに読書の価値を置いているように思う。

 追体験を読書の価値とするならば、その価値を最大化するためには自らが活動的にならなければならない。ここ数年はパニック障害になったり、コロナウイルスの流行で外に出かけていくことが難しくなった。つまり、実感のない情報過多になり頭でっかちになった。当然、読書がつまらなくなった。

 毎日外出して、誰かと会話して帰ってくる。高校生のころまで当たり前のようにしていたことが、実感を得るということにおいて大きな役割を果たしていたことをその機会を失って初めて気づく。

 

 外に出よう。手を動かそう。五感を働かせて、実感を得よう。私の生活を、私を取り戻すために、明日も生活を眺めて目を輝かせる。