フーセンガムを太陽に透かした日

 私の日常に、小説で描かれるようなシーンは現れない。

 

 平坦な日常は、ある日突然始まった。毎日同じことをこなすだけ。朝起きて、夜寝るまでに毎日の変化はほとんど起こらない。感情の起伏も、ほとんど起こらない。

 平坦な日常は、薄暗くて、道しるべは何もなくて、いつも私はうろたえている。

 

 ふと、幼い頃によく遊んだ公園に行こうと思い立ち、友達を誘った。了解、のLINEスタンプが送られてくる。友達と待ち合わせたコンビニで、ひとつだけ酸っぱい味が入っているフーセンガムを、PayPayの少ない残高で買う。公園のベンチに座って、よく晴れた空に向かってフーセンガムをぷわ、と膨らませる。太陽が透けてみえる。まぶしい、と思っていたら、隣ですっぱい!と声がする。酸っぱいフーセンガムは友達が食べた。大きなフーセンを作ろうと、もう一個ガムを口に放り込む。大きなフーセンができて、できた!と友達に見せた瞬間、割れたフーセンが口にへばりついて笑われる。友達と別れた帰り道、相変わらず大きなフーセンを作ろうとしていたら、散歩をしているおじいさんに見られて恥ずかしい思いをする。

 この瞬間ひとつひとつに、平坦な日常を明るく照らす一筋のひかりが見えた。友達と過ごした短くて濃密な時間が、私には尊く、永遠であってほしいと思った。それなのに、この一瞬の記憶が、はかなく、すぐに遠くへ行ってしまいそうな気がした。そんなの、かなしいじゃないか。

 友達と楽しかったねとLINEをしたり、写真も撮った。それなのに、この記憶を永遠にするには十分じゃなかった。どうにかして、記憶を額縁に入れて眺められるようにしたかった。そうか、私にとっての記憶は、写真などのイメージには残らない。私にとっての額縁は、文章に残すことだった。

 家に帰って、ブログを立ち上げた。勢いのまま文章を書き上げる。投稿する。そうして、薄暗い日常に戻っていく。

 

 私がブログを書く理由は、特別だったことに火を灯して、明かりにしたいから。

 記憶は頼りなく、すぐに姿を消してしまう。ろうそくのように特別な記憶に火を灯せば、薄暗い日常を歩くための道しるべを見つけられるかもしれない。

 ブログを書き連ねていくうちに、ろうそくの本数が増えた。まだまだ道しるべを探すには明るさは十分ではないけれど、すこし心強い。

 

 あの日の太陽を、フーセンガムに閉じ込めて。ろうそくに火を灯すように、私は文章を書く。

 

 

 

特別お題「わたしがブログを書く理由